2020年3月27日16時31分にNHK東北から、下記趣旨の記事がネット配信されていた。
東北大学の研究グループが東日本大震災で亡くなった人たちの死因について調べた結果、「低体温症」で亡くなった人が沿岸部に集中していたことがわかりました。
研究グループでは、津波から逃れたあと、体がぬれたままでいたため、低体温症で亡くなったとみていて、適切な対策をとれば救える命があったと分析しています。
東北大学災害科学国際研究所の門廻充侍助教らのグループは、東日本大震災で亡くなった人のうち、宮城県の9527人の死因や遺体が発見された場所などの記録について宮城県警から提供を受け、平成29年から分析を進めています。
研究グループが今月、今年度の研究結果を発表し、それによりますと、全体の9割に相当する8677人の死因は津波による「溺死」だったとする一方、あわせて23人が「低体温症」で亡くなったということです。
「低体温症」で亡くなった人の遺体が見つかった場所は、いずれも沿岸部の市と町に集中していて、石巻市が8人と最も多く、気仙沼市が4人などとなっています。
この原因について研究グループは、津波から逃れたあと、体がぬれたままでいたため、冬場の寒さもあって低体温症で亡くなったとみていて、適切な対策をとれば救える命があったと分析しています。
門廻助教は、「津波に巻き込まれ低体温症につながったことがデータからも明確になったと感じている。
次の災害で1人でも多くの命を救えるよう研究を進め、何らかの提言や提案につなげていきたい」と話しています。
研究グループはさらに分析を進め、震災から10年となる来年3月ごろに、最終的な成果をまとめることにしています。
「低体温症」は、医学的には何らかの原因で体の中心部の温度が35度以下まで低下した状態を指します。
人間の体温のメカニズムに詳しい東北大学病院の高度救命救急センターの久志本成樹センター長によりますと、「低体温症」になる要因として、寒い環境に長時間いたり、ぬれた服を着たままでいたりすることなどが考えられるということです。
その上で、体温が35度を下回ると、体にさまざまな不調が現れ、たとえば、呼びかけても反応がにぶくなったり、動作が遅くなったりするほか、まっすぐ歩けなくなるなどの症状が出てくるということです。
このため、「低体温症」を防ぐには、風にさらされないよう屋内にとどまることや、服が濡れた場合は、直ちに脱いで毛布を何重にも重ねること、さらに、毛布がなければ新聞紙やビニールなどぬれていないもので体を覆うなどして、体を冷やさないようにすることが有効だとしています。
久志本センター長は、「低体温症になると、最初は“寒い、寒い”と震えているが、だんだんと反応がにぶくなってくる。少しでも低体温の危険性があるときには、周囲の人がきちんとケアすることも必要となってくる」と話していました。
門廻助教らの研究グループが宮城県警から提供を受けたデータには、9527人分の年代や性別、死因のほか、遺体が発見された場所などが盛り込まれています。
このデータをもとに研究グループが死因を分析したところ、「溺死」が8677人と最も多く、次いで「焼死」が81人などとなりました。
その上で、警察庁の統計では「損傷死・圧死・その他」とひとくくりにされていた死因を9つに分類した結果、「低体温症」で亡くなった人が23人いたことがわかりました。
そして、死因ごとに遺体が発見された自治体をまとめ、今月、その結果を発表しました。
研究グループは、震災から10年にあたる来年3月に最終的な研究結果をまとめることにしていて、遺体が発見された場所が津波の浸水域かどうかなど、さらに詳しい分析を進めることにしています。
東日本大震災の教訓を生かそうと、県内では、津波からの避難施設に「低体温症」を防ぐ設備を導入する動きがあります。
仙台市では震災以降、市内のあわせて11か所に、津波が起きた際の一時的な避難施設となる津波避難タワーや津波避難ビルを整備しました。
その大きな特徴は、冬場の寒さの中でも「低体温症」を防ぎ、命を守るための設備が導入されたことです。
宮城野区の仙台港近くにある「中野五丁目津波避難タワー」には、地上6.6メートルの高さにある2階部分に100人を収容でき、風を避けることができる屋内スペースが設けられています。
また、電気が使えない場合を想定して、ガスボンベを燃料とするストーブなど、体を暖めるための器材も備えられています。
こうした設備はすべての施設で導入されていて、寒さの中でも1日は過ごせるよう、食料なども備蓄されています。
仙台市防災計画課の鈴木課長は、「震災当時、寒さで苦労したという教訓から、こうした寒さ対策に重点を置いた施設を整備した。地域の声を反映しながら、備蓄なども考えている」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/tohoku-news/20200327/6000009440.html
(ブログ者コメント)
〇本件、東北大学が「生存学」の構築を目指し、死亡状況の分析に着手するという情報を、一昨年9月、本ブログで紹介した。
その続報として紹介する。
〇同種情報がないか調べたところ、4年前の下記記事が見つかった。
ご参考まで。
<アーカイブ大震災>氷点下の寒さ追い打ち
(2016年2月10日 河北新報)
2011年3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。
津波でずぶぬれになった人、建物の屋上で救助を待つ人…。
暖が取れない状況の下で、冷たい雪は多くの人の目に「非情の雪」と映った。
天候は夜には回復し、満天の星空が広がったが、それもまた「無情の星空」。
放射冷却で翌朝にかけて厳しく冷え込み、多くの命を苦境へと追い込んだ。
◎その時 何が(22完)非情の雪、無情の星空(宮城・南三陸町)
皆、寒さでガタガタと震えていた。唇は紫色で顔面は蒼白(そうはく)。外は雪。低体温症の症状だった。
「震えがひどく、自分で思うように動けない人もいた。3人がかりで着替えさせた」
宮城県南三陸町の公立志津川病院の看護師佐藤のり子さん(52)は、目の当たりにした低体温症の怖さを思い起こす。
海岸から距離約400メートルに位置する同病院は津波に襲われ、水は4階まで達した。
全身ずぶぬれになったり、横たわったまま水に漬かって半身が泥まみれになったりした患者も多かった。
浸水を免れた西棟5階会議室には、入院患者42人と病院スタッフ約80人、駆け込んだ近隣住民約120人の計約240人がいた。
看護師らは5階の限られた物資で、患者の体温を保つ工夫を重ねた。
ぬれた衣服を脱がせてタオルで包み、新聞紙を体に巻いた。ゴム手袋もはめさせた。
床には段ボールを敷き、体を寄せ合うように寝かせた。
毛布代わりに介護用おむつと、外したカーテンを掛けた。
「体を温めてあげたくても電気も火もない。ありったけの物で、できる限りのことはしたんですが…」と佐藤さん。
必死の措置もむなしく、12日午後に救出ヘリが来るまでに、患者7人が低体温症などで息を引き取った。
宮城県石巻市大街道小でも、女性1人が低体温症とみられる症状で亡くなった。
東松島市野蒜小でも多くの人がぬれた服のまま避難。
割れた窓から吹き込む冷気が体温を奪い、お年寄りらが次々と低体温症で死亡した。
宮城県警が震災から1カ月後にまとめた県内犠牲者8015人の死因によると、低体温症を含む「その他」が58人いた。
あの日の冷え込み、その後の停電や燃料難による暖房の欠如…。
過酷な寒さが地震や津波から取り留めた命を死のふちに追いやったのも、この震災の特徴だ。
仙台管区気象台によると、東北太平洋側各地の気象データは震災後、津波被害や停電の影響で入手できなくなった。
宮城県内で唯一、切れ目なくデータが残る仙台は11日午後、断続的に雪を観測。
第1波襲来後の午後4時半前後は見通しが利かないほどの強さになった。
多くの証言によると、宮城県沿岸の各地は同日夕、雪に見舞われた。
夜は西から高気圧が張り出し、東北は広い範囲で晴れた。
気象台は当時の天気図から、「12日朝は放射冷却で、津波被災地は軒並み氷点下2~3度。被災者には厳しい気象条件だった」と推測する。
志津川病院の看護師畠山啓子さん(53)には二つの「もし」が交錯する。
「もし、もう少し暖かかったら助かった人もいたかもしれない。でも、もし阪神大震災のような真冬だったら、もっと大変なことになっていた」
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2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
5年の節目に際し、一連の記事をあえて、当時のままの形でまとめた。
記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。
https://www.kahoku.co.jp/special/spe1168/20160210_01.html
その間、ずっと奥歯に挟まっていたのは、他社の事故情報がほとんど耳に入ってこなかったことです。
そこで退職を機に、有り余る時間を有効に使うべく、全国各地でどのような事故が起きているか本ブログで情報提供することにしました。
また同時に、安全に関する最近の情報なども提供することにしました。