2021年10月10日20時0分に朝日新聞から、『震度6強、空港に取り残された1695人 見知らぬ相手と生き延びた』というタイトルで、下記趣旨の記事がネット配信されていた。
長文につき、災害の拡大防止に多大の貢献をした行為があったという部分だけ紹介する。
2011年3月11日金曜午後、地上の気温5度。
午後2時45分仙台着の大阪発日本航空便は、遅れがアナウンスされていた。
同40分に中国大連行き、41分に大阪行きが飛び立つ。
奇跡的に、滑走路から旅客機が1機もいなくなったそのとき――。
震度6強の激震が、宮城県名取、岩沼両市にまたがる仙台空港を襲った。
・・・・
【惨事を防いだ いつもの閉栓作業】
時計を地震のときに戻す。
アクセス鉄道仙台空港駅と道路をはさんだ南側に、高さ12メートルの燃料タンク2基が並ぶ。
航空機が着くたびに、エプロンとの間を給油車が行き来し、短い駐機時間に正確な量を給油する。
いわば、フルサービスの出張ガソリンスタンドだ。
小野寺(61)の震災時の肩書は、株式会社パシフィック(本社・岩沼市)の航空給油事業部長。
同社は仙台、福島両空港の給油を請け負ってきた。
3月11日、980キロリットルが入るタンクは、2基ともほぼ満杯だった。
揺れが収まった後、やって来た消防団員が小野寺に避難を促した。
小野寺は10人ほどの従業員に「空港ビルに行け」と指示。
残った2人と施設の点検に出た。
1人をタンクの上に登らせ、海を見張らせる。
小野寺たちは周囲を見て回ったが、タンクの耐震性は十分で、異状なし。
最後に、タンクの外についているバルブをきつく閉めた。
津波警報時のマニュアルがあったわけではない。
いつも終業時、戸締まりと閉栓をする。
このときも、「事務所が留守になるな」と考えただけだった。
小野寺たちは、水に囲まれた空港ビルで、その夜を過ごす。
周囲には2千台もの車が流れ着き、ガソリンが漏れ、一部が発火した。
自分たちのタンクがどうなったかは、わからない。
数日後、がれきをかきわけタンクにたどりついた小野寺は、「あっ」と声をあげた。
タンクと給油車の積み込み場所を結ぶパイプが、地上に出るところでねじ切られていた。
想像を超えた津波の力だった。
もしもバルブを閉めていなかったら、タンクいっぱいの燃料がパイプから噴出していたはずだ。
容易に引火し、約1700人が閉じ込められた空港ビルは炎の海に包まれて――。
地震時に旅客機がいなかったことと合わせ、タンクの無事は、空港がさらなる惨事を免れた幸運の一つだ。
空港長だった大坪は、小野寺が「空港の一番の恩人」と振り返る。
小野寺はいまも勤務を続け、全国の空港の同業者に、あの時の教訓を伝え続けている。
・・・
https://digital.asahi.com/articles/ASPB76TRZPB5UNHB00W.html?pn=21&unlock=1#continuehere
(ブログ者コメント)
津波対応マニュアルがなくても・・・。
津波対応訓練を行っていなくても(?)・・・。
現場に誰もいなくなる時にはバルブを閉める・・・そんな基本動作が身についていたことで災害の拡大を防ぐことができた・・・そのように感じた。
その間、ずっと奥歯に挟まっていたのは、他社の事故情報がほとんど耳に入ってこなかったことです。
そこで退職を機に、有り余る時間を有効に使うべく、全国各地でどのような事故が起きているか本ブログで情報提供することにしました。
また同時に、安全に関する最近の情報なども提供することにしました。