2020年3月18日12時45分に毎日新聞から、交通網整備などに伴う大事故の一覧表付きで、下記趣旨の記事がネット配信されていた。
大阪市営地下鉄谷町線延伸の工事現場でガス爆発が発生し、79人が死亡、420人が重軽傷を負った「天六ガス爆発事故」から、4月で50年を迎える。
当時は1970年大阪万博の開幕直後。
高度経済成長まっただ中の大惨事は、「都市災害」の概念が浸透するきっかけにもなった。
刑事責任を問われた元職員に、生死をさまよった被害者や遺族。
5年後に再び大阪で万博を迎える今、関係者の言葉に耳を傾け、都市開発のありように目を向けたい。
「日本一長い商店街」として知られる大阪市北区の天神橋筋商店街の北端に位置する通称「天六交差点」。
約300メートル東の都島通で70年4月8日午後5時45分ごろ、大爆発は起きた。
この惨事は、大都市大阪の過密化を防ぐ再開発途上に起きた未曽有の大災害であったが、今後、都市の建設にあたっては安全性の確保に努め、再び惨事を起こすことのないよう祈願と決意を新たにする。
現場近くの国分寺公園には、大阪市や工事請負業者の鉄建建設(東京)、大阪ガスが建立した慰霊碑が建つ。
誓いの碑文の下に、79人の犠牲者の名が刻まれた銘板が納められている。
「生涯忘れられない、忘れてはいけない事故」。
事故から15年が経過した85年に業務上過失致死傷罪で懲役1年6月(執行猶予3年)の有罪判決を受けた元市交通局の矢萩さん(男性、80歳)=奈良県生駒市=は3月上旬、碑の前で手を合わせ、つぶやいた。
事故のあった4月8日には、毎年欠かさず事故現場を訪れる。
「工事に関わった当事者として、事故に対し口を閉ざして逃げてはいけないと思った」と、初めて個別の取材に応じた。
谷町線は70年3月開幕の大阪万博前に東梅田―天王寺間が開業し、事故当時は都島駅までの延伸工事中だった。
土を掘り起こしてコンクリート製の覆工板で覆った地下空間で作業が進められた。
事故原因となったガス管は土が除かれ、むき出しのままで宙に浮いていた。
大阪地裁は、経年劣化や掘削と埋め戻しの繰り返しから管の継ぎ目が外れ、大量のガスが漏れたと指摘。「何らかの着火源」が引火し、爆発したとしている。
爆発の直前、ガス漏れの一報を受けて駆け付けた大阪ガスの巡回車が現場付近でエンジントラブルを起こした末に炎上した。
判決は炎上と爆発の因果関係を認定していないが、ガス漏れを知らずに燃えさかる車を見るために集まった人たちが爆発に巻き込まれた。
爆風で路上に敷き詰められた1枚380キロの覆工板が1000枚以上吹き飛ばされた。
火災の見物人や帰宅途中だった約500人は体を強打したり、炎にのまれたりして死傷。
「4階建てのビルの屋上にも板が残っていた」と近隣住民は証言する。
矢萩さんは鉄建建設の工事を指揮する主任監督だった。
地裁判決は市にも「監督権を適正に行使する責務があった」と判断し、矢萩さんら交通局の職員3人に有罪判決を下した。
「自分が刑事責任を負うのは仕方ない」。
矢萩さんは判決を受け入れているが、「高度経済成長のひずみで発生した都市災害。個人を裁いて終わる問題ではない」と複雑な思いが今もくすぶる。
当時、政府は外車の輸入を抑制するなど、国内自動車産業の保護政策を推し進めた。
モータリゼーション(自動車の大衆化)で生じたのが、大都市の深刻な交通渋滞だ。
道路の混雑で輸送効率が落ち、赤字がかさんだ大阪市電(路面電車)に代わったのが地下鉄。
大阪市は戦後復興の象徴となった大阪万博に向けて、急ピッチで整備を進めた。
矢萩さんは、「大阪が世界の目に触れることもあり、万博を目標に、国も府も市も張り切っていた」と話す。
市民生活への影響を最小限に抑えながら工事を進めるには、万博開幕の70年3月までに地下の開削を終え、路上に覆工板を敷く必要があった。
判決は、作業中のガス管の防護が不十分だったと指摘した。
「『突貫工事だったのか』と聞かれれば、そうかもしれない」。
矢萩さんは、ぽつりとつぶやいた。
事故から50年。
大阪は、あの頃のように25年の大阪・関西万博を控え、会場となる人工島・夢洲(ゆめしま)を中心とした湾岸エリアの開発への期待が高まっている。
市営地下鉄は民営化され、大阪メトロに。
万博開幕までには中央線を約3キロ延伸し、会場の玄関口となる「夢洲駅」(仮称)を新設する工事が計画されている。
ただ、埋め立て地の夢洲の地盤沈下を懸念する声もある。
矢萩さんは、「地理的特性を踏まえると、スケジュールに余裕はないはず。爆発事故を直接知らない技術者たちには、『安全第一』の視点だけは見失わずに開発に取り組んでほしい」と願った。
【繰り返される「人為ミス」「都市災害」 被害者は忘れない】
1970年4月8日の天六ガス爆発事故当時、中学3年だった坪井さん(男性、64歳)=大阪市北区=は自宅近くの現場で父(当時37歳)を亡くした。
「今更、鉄建建設や大阪市を恨むつもりはない」と心の整理はつけているが、事故以降も繰り返される、人為的なミスが根本にあり、傷を広げる「都市災害」にいらだちを隠さない。
80年には、国鉄静岡駅(当時)前の地下街でガス爆発が起きて15人が死亡した。
91年には、広島市で新交通システム「アストラムライン」の高架建設中に橋桁が落下して15人が犠牲になった。
大事故が起こる度に、都市開発のあり方を問う議論が巻き起こっては、やがてしぼんだ。
坪井さんは険しい表情で言う。
「事故に関わった人にとって、悲惨な出来事は教訓として残り、反省するきっかけになる。でも、ニュースで目にしただけの人は『またか』で終わってしまう。僕らの中であのガス爆発は死んでも風化しないが、同じ失敗が繰り返されたことが腹立たしい」
19年4月、鉄建建設の社員や大阪市職員も出席した事故現場近くの国分寺公園で執り行われた五十周忌法要。
参加は約40人。
坪井さんは遺族の代表としてあいさつに立った。
大事故を経験した町会の一員として「二度と同じ過ちは繰り返さない」という誓いを述べたという。
「油断大敵。開発技術が発展しても、過信が大事故を招く」と語る坪井さん。
楽しみにしていた70年大阪万博を訪れることなく亡くなった父を思い浮かべ、付け加えた。
「5年後の大阪・関西万博に携わる建設関係者には、プロフェッショナルとして人の命を一番に考えた開発を進めてほしい。それが天六事故の犠牲者のみたまに応えることにもなる」
奇跡的に一命を取り留めた人もいた。
「命があるいうんは、それだけで素晴らしいことや」。
武富Nさん(男性、72歳)は、大阪市東淀川区の自宅でしみじみと語った。
結婚48年目の妻(72)も隣でほほえむ。
恋人同士だった2人はあの日、大阪・梅田で夜のデートを楽しむつもりだった。
営業先から車で天六の職場へ戻る途中だったNさんは、渋滞の先に燃え上がる車を見た。
人だかりから「ガス臭い」という声が聞こえた。
「ほんまかいな」と思った後の記憶が抜け落ちている。
目を覚ますと暗闇の中にいた。
爆風で吹き飛ばされ、地下約5メートルの工事現場にたたきつけられていた。
「兄ちゃん、上がろか」。
もうろうとする意識の中で、隣で倒れていた中年男性の声が聞こえた。
頭蓋骨(ずがいこつ)は折れ、右足の甲の関節が外れるなど、全身に大けがをしたが、地上から下りてきた縄ばしごで自力で地上に出た。
警察官がパトカーでNさんを病院に運んだが、車内で記憶は再び途切れた。
数日後に意識を取り戻した時、「偶然が重なって助かった」と命の重みをかみ締めた。
退院後も、雨の日は気圧の関係で体がだるくなったり、地下鉄の騒音に頭痛を起こしたりする後遺症に苦しんだが、事故の2年後に結婚したM子さんが支え続けた。
Nさんの勤務先が倒産するなど「山あり谷あり」だったが、二人三脚で歩んできた。
M子さんは、「どん底からの出発だったから乗り越えられた。事故を経験していなかったら、私たちは『耐える』ということを知らんかったと思う」と振り返る。
Nさんは毎日、地下鉄に乗って大阪市内のマンション管理会社でパート従業員として勤務する。
「大阪が便利な街になるまでに多くの犠牲があった。それだけはいつまでも、忘れたらいかん」。
被害者の声が重く響く。
https://mainichi.jp/articles/20200317/k00/00m/040/213000c
その間、ずっと奥歯に挟まっていたのは、他社の事故情報がほとんど耳に入ってこなかったことです。
そこで退職を機に、有り余る時間を有効に使うべく、全国各地でどのような事故が起きているか本ブログで情報提供することにしました。
また同時に、安全に関する最近の情報なども提供することにしました。