2019年5月6日17時46分に毎日新聞から、下記趣旨の記事がネット配信されていた。
大阪府南西部の泉南地域で、アスベスト(石綿)紡織産業が最盛期だったころから石綿の危険性を訴え続けた開業医の梶本政治(まさはる)さん(1913~94)の遺品などを集めた「アトリエ泉南石綿の館」が、同府泉南市信達牧野の同医師旧宅跡地にオープンした。
後の住民たちが泉南石綿健康被害国家賠償訴訟で勝訴した道のりも伝える。
梶本医師は大阪帝国大(現大阪大)医学部を1937年に卒業。
第二次世界大戦で軍医として戦地に赴き、敗戦後は大阪大で研究し、53年に内科医として地元に医院を開いた。
と同時に、木製の看板「石綿肺研究会」を掲げた。
石綿肺は、石綿の粉じんを吸い込んで肺が硬くなる危険な病気。
進行すると呼吸困難になる。
泉南地方の石綿産業は、日露戦争直後から始まった国内有数の地帯。
60年代には200以上の石綿関連工場があり、就労者は約2000人と推定された。
そんなただ中で、梶本医師は石綿による病気を研究し、公然と危険性を訴えた。
遺族らによると、診察や往診など地域医療に尽力する傍ら、石綿関連疾患と被害の調査・研究をリードした国立療養所近畿中央病院(当時)の瀬良好澄元院長と頻繁に会っていた。
また、当時は極めて高価だった海外の石綿関係の文献も収集。
こうして石綿の危険性を認識していったとみられる。
市民団体「泉南アスベストの会」共同代表の柚岡一禎(かずよし)さん(76)によると、梶本医師は行動の人でもあった。
地元の石綿工場の経営者や従業員に石綿の危険性を説いて回った。
ある工場では石綿の「集じん機」を設置させ、別の工場では追い返されることも。
駅のプラットホームで石綿工場の経営者と押し問答になっているのを見かけた人もいるという。
石綿の危険性を訴えたチラシも自ら作った。
「規制を適用できるはず」と、国の無策を指摘したチラシを作り、国の省庁や自治体、研究者や関連業者に郵送した。
しかし、反応がなかったという。
同会共同代表で梶本医師の長男逸雄さん(70)は、「遊びたい盛りのころに兄弟でチラシのガリ版印刷を手伝わされた」と証言する。
柚岡さんは、「敬意を抱く人もいたが、地域全体では変人扱いされていた」と振り返る。
多くの人の記憶に残るのは、往診や工場視察のため、「カブ」と呼ばれるバイクで地域を走り回る姿だった。
貧しい地域の患者を相手にすることが多かったという。
「石綿の館」は約20m2。
その入り口の梶本医師の「由緒」に、「先生がこの地の住民の一人であったという事実は(中略)時に利を得、沈黙したわれわれを、からくも免罪してくれているように思う」と記されている。
梶本医師死亡11年後の2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧石綿製品工場の周辺住民にがんの中皮腫が多発している被害が発覚した。
そのとき、泉南地域の住民が、あたかも梶本医師の姿の記憶が呼び覚まされたかのように、被害を訴える活動に立ち上がった。
翌年5月、泉南地域の石綿工場の元従業員らが集団で、「石綿肺などの被害は国が規制を怠ったため」と、国家賠償請求訴訟を大阪地裁に提起した。
訴訟は、高裁での敗訴判決もあり、多くの原告が亡くなるなど、約8年以上の曲折があった。
そして14年10月、最高裁の判決で「国が権限を行使せずに対策を怠った」という判断が確定し、原告が勝訴した。
「石綿の館」では、訴訟の記録映像の上映や関連図書の展示が行われている。
入館無料だが、見学者は事前に「泉南アスベストの会」(090・8126・6333か、090・7968・0395)へ連絡を。
【梶本政治医師と泉南地域関連年表】
1937年 大阪帝国大(現大阪大)医学部卒業
45年 第二次世界大戦で日本敗戦
53年 泉南で医院を開業し「石綿肺研究会」の看板を
掲げる
60年代~ チラシで盛んに石綿の危険を訴える
71年 政府が石綿工場で局所排気装置の設置を義務付け
94年 死去
2005年 クボタ旧石綿製品工場周辺で住民の中皮腫多発が
発覚
06年 泉南地方の住民が石綿健康被害国家賠償訴訟を提起
14年 最高裁判決で同訴訟の原告勝訴が確定。政府が謝罪
出典
『石綿の危険性訴え続けた開業医の記念館 大阪・泉南市に』
https://mainichi.jp/articles/20190506/k00/00m/040/084000c
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